知る | 歴史・様式・歴代家元

松月堂古流の歴史

松月堂古流の歴史

【左】三代家元 植松雅陳の肖像画(家元蔵)
【右】明治の元勲公爵三条実美の流名の書(家元蔵)

松月堂古流は、江戸時代の中期、宝暦明和年間に僧侶であった、是心軒一露(ぜしんけんいちろ)師によって創流された独自の流派です。当時は、立華の様式が隆盛していた時代でしたが、町民文化の成熟と安定にともない新しいものを希求する情勢にありました。この情勢にこたえるように「生花(せいか)」という新風を打ち立て諸流の間で流行する様式の先陣を切った一人が是心軒一露師でした。

師が創流するにあたり、花型の基礎を示された「小篠之巻(おざさのまき)」と花器の種類、寸法を示された「華器寸傳の巻(かきすんでんのまき)」は二軸の傳書として大切に伝承されています。是心軒一露師の死後、跡を継いだ京都の公家であった家元植松賞雅(うえまつたかまさ)卿と五大坊に任じられた和光庵卜友(わこうあんぼくゆう)師により発展し今日に伝わっています。

 

 

松月堂古流の様式

生花という様式・思想を根底として流儀体系を立てているのが松月堂古流の特徴ですが、時代の変遷、建築様式の変化、手に入る植物・花の多様化に柔軟に対応し変化もしています。
ここでは、松月堂古流のそれぞれのスタイルの特徴をご紹介させて頂きます。

 


生花(せいか)|松月堂古流生花 せいか

生花は、ただただ花の綺麗さやはなやかさがあればよいという様式ではありません。その植物の育つ環境や生育過程の特徴などをよく観察し、出生として理解し、より本来に近くなるよう、またよりその植物に沿った自然観に基づくよう表現しようとする様式なのです。
古来学僧の世界では、この世の萬物は地(ち)・水(すい)・火(か)・風(ふう)・空(くう)の五大により形作られるのであるという思想がありました。これを、留(とめ)、体(たい)、通用(つうよう)、相令(そうれい)、正花(しょうか)という5本の基本の役枝に当てはめ、一瓶の中に植物のいのちに託して調和に満ちた小宇宙を形成することを目指すのが生花なのです。

草木自然の理想のあり方を思いながら、純粋な気持ちで目の前の枝、葉、花に向き合い、こころを込めていける。その過程において自分の心を見つめることであったり、感謝であったり、我を離れることであったりを学びたいという深い意味があります。
見る人、いける人に作用して互いの心を高めていくのが生花の深淵なところでありますし、松月堂古流の理想とするところなのです。

 

 


投入花(なげいればな)|松月堂古流投入花 なげいればな

「いけばなは投入花に始まる」と言っても過言ではないほど古くから親しまれている形式です。
植物の自然の姿を大切にしながら、自分の感情や日々移り変わる季節を過ごせる喜びを表現するのが狙いです。
自由な感覚でいけられるようになるために、初心者が上達しやすい花型と天・人・地という基本の構成があります。

また、投入れ花は花留めを使いませんが、といって、花器の底まで植物を差し込むわけでもありません。花の姿を定めるには二通りの方法があります。
ひとつは、花器に対してさまざまな種類と方法で留め木をしかける方法でもう一つは植物に対して手を加えて安定させる方法です。
様々な方法が身につけば、より幅の広い花瓶や花器にいけられるようになります。

 

 


盛花(もりばな)|松月堂古流盛花 もりばな

盛花は、底が浅くて、口の広い水盤と呼ばれる花器や、脚がついていてやや底の深いコンポートと呼ばれる花器に花留めを使って植物を盛り込むようにしていけるスタイルを指します。
花留めを使わず花器にもたせかけるようにしていける投入花に比べて、より装飾的な側面、装飾的な豪華さが強調されます。

松月堂古流の盛花には、自然界の植物の生態を観察し、ならい、いかしながら造形する自然調(写実)表現の盛花と、植物の出生観にとらわれず、植物を素材としてみることにより個性的なおもしろみを造形する非写実表現の盛花の2つがあります。

 

 


流麗花(りゅうれいか)|松月堂古流流麗花 りゅうれいか

流麗花は、松月堂古流の伝統的な生花の美しさに現代的な感覚を加えて創られた新しい様式のいけばなです。
流麗花は、生花の五体構成を元にして考えられています。
役枝の寸法や水際があること、半月型の姿で線状美のある植物の特性を生かすことなどは、非常に生花に似ています。

しかし、生花にとぼしい色彩感覚を洋花が持つ鮮やかな花色を積極的に取り入れることで補い、部分的には面状に広がる植物、量感のある植物を用いることで多様な美しさを表現することを目指しています。
また、花器はガラス器や陶器などの爽やかでやさしみのあるものをもちいていけます。
流麗花は、足元を剣山でまとめますので針が見えないようにガラス玉や美しい小石などで隠していけあげます。

 

 


 

歴代家元

是心軒一露師の死後、家元として跡を継いだのが京都の公家であった植松賞雅(うえまつたかまさ)卿でした。
その後家元は植松家の当主が継いでいましたが、宮中に仕える立場であり、地方に流儀を広めることが出来ないので流布活動は当時当時の有力師家を五大坊に任じることでゆだね、もっぱら宮中献花の職務を行っていました。

安政三年(1856年)七代家元植松雅言(うえまつまさこと)卿の時代に、時の天皇陛下に生花を献上したところ大変なお褒めの栄に浴し『日本の生花の司であれ』というお言葉を賜ったのを光栄とし、以後「日本生花司」の五文字を流名に冠して、当流より分流したほかの松月堂古流と区別しています。